YAMAEN’S HISTORY
「幸福の木」「ゴムの木」「パキラ」・・・
今ではもっともポピュラーな観葉植物を、
こんなにポピュラーにした張本人!タカシ 山田。
アロハシャツがトレードマーク!の喜寿のおじいちゃん
「タカシ 山田」って・・・いったい何者!?
観葉植物なんて見向きもされなかった昭和30年代前半。
目のつけどころがクリーン&グリーン(?!)だったタカシ山田は、観葉植物貿易を開始しました。
相手は生き物、まるでバクチのようなもの!
起床の変化に左右され、害虫に泣かされ、枯れたり腐ったり・・・。
おまけに為替レートの変動、過去の実績もあてにならず。
時代の並、高度経済成長の波は、流行んじょ激しい波にもなるけれど、そんな時代ゆえに落差も激しい。
ブームをとらえても“工場で大量生産”てなわけにはいかず、供給は保障されないのです。
「こんなところでくすぶっていないで、外国に行って勉強して来い!」
今から約50年前の1956年。タカシは広島大学初代学長の故 森戸 辰男先生(後の文部大臣)から
農林省の第5回農村青荘派米制度を紹介されました。
そして全国から選考された40名の仲間と共に渡米。
ロサンゼルスの観葉植物農園「ロンテル・ナーサリー」。
そこを訪れたタカシには第二の運命の出会いが待っていたのです。
経営者の日系二世 下原 正芳さんがその人。
品種や栽培方法を学びながら、幾度もサンフランシスコの農園などを案内していただきました。
帰国後も種苗を輸出していただき、以降、観葉植物の貿易が可能となったのです。
花木の歴史ワンポイント
そもそも、明治、大正の時代までは観賞植物と呼ばれていた観葉植物。
ギフトに花を贈るのが「ステキ」で「イキ」になってきた昭和40年代以降に、
グリーンも“観葉”として身近になってきたようです。
昭和50年代には観葉植物がサマーギフトに利用されるようになり、
それからはさまざまなお店、個人のお部屋のグリーンインテリアとしてモテモテに!
「ゴムの木」「カラテア」などを初めて日本に紹介したり、「幸福の木」を大々的に扱いここまでポピュラーにした、タカシ山田。
育てやすく、和風、洋風どんな部屋にでもマッチしちゃう「パキラ」の幹の編み込み・・・これってもう当たり前すぎて、って思っちゃうけど、この編み込みを思いつき、生産し始めたのも、ジ、ツ、ハ・・・タカシ!なので~す。